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「漠然とした不安」について本気出して考えてみた。

こんにちは、nkyutです。
 
研修だったり仕事だったりで、なかなか更新ができなかった最近ですが、今日は仕事や研修を通じて考えたことをツラツラと書きたいと思います。
 
お題は「漠然とした不安」というもの。
 
なぜそれについて書こうと思ったのか。
それは、自分自身が感じているというよりも「プロジェクト内に漠然とした不安が存在しているのではないか」という話を聞くことが増え、ではそれをどうやったら解消できるのだろうかと考えようと思ったからです。
自分は、決してその道のプロなどではなく、ただの実体験に基づいたお話なので、全く共感を得ない可能性などがありますが、あくまで自分の頭の整理のために留めておきたいと考えました。
ちなみに、そんな自分のお仕事はIT企業でのビジネス企画や新規事業企画をちょろっとやってる程度のいわば未熟者です。
 
だからこそ自身の意見を整理し、皆様のご意見を伺いたいと思った次第です。
読んでくれている人がいれば、の話ですが。
 
さて、以下に本文を書きます。
 
偉そうな口調になってしまっているかと思いますが、自身の頭の中の言葉遣いなためですので、何卒ご了承いただけますと幸いにございます。

漠然とした不安

「漠然とした不安」という言葉がある。
「よくはわからないが、社内に漠然とした不安が蔓延している」だとか「自分の将来に漠然とした不安がある」だとかいう際に使用される言葉。
 
「漠然とした」という言葉が漠然とし過ぎており、さらに「不安」と来るからさらに漠然とする。
そういう言葉だからこそ曖昧模糊っとして、多くの人の思考を停止させる魔法のワードと言える。
 
そして、「漠然とした不安」は「漠然とした不安」と解釈されると、一気に解決すべき課題としての対象ではなくなる。
なぜなら、具体的な課題が定義されないから。
定義されない課題は存在しないものと同義なのかもしれない。

不安とは何か?

では、そもそも「不安」とは何か。
それについて考えたい。
 
そのためには「不安」という言葉をきちんと定義し、認識する必要がある。
 持論だが、「言語化すること」が課題を捉えるために必須の技術だと考えている。
だからこそ、僕はこうやって文字に書く。
 
さて、「不安」は「悩み」と似ているけれど、「不安」は「悩み」ではない。
 
「悩み」は悩むに至った何かしらの原因がある。
つまり、過去の事象の延長線上である現在において発生している。
そして、それがために苦痛や心労を受けている状態と言える。
 
他方、「不安」は未来に対して感じるものであり、将来の未だ起こっていないことについて現在の時点で気にかけている状態、言うなれば不確実な未来に対しソワソワとしている状態だと言えるのではないだろうか。
 
例えば、「注文伝票で一桁多く書いてしまったので、上司にバレないか心配だ」という男性がいるとする。(全く関係ないけれど、この状況が上司にバレない訳がない)
さて、そうした場合、句点の前半に記載している「注文伝票で一桁多く書いてしまった」のは過去のある時点で起こしてしまった事象であり、言うなれば「悩み」である。
これが、「注文伝票に一桁多く書いてしまった<かもしれない>ので」となると話は別だが、今回は「書いてしまった」という事実があるので、過去の凡ミスへの悩みだと言える。
そして、句点の後半である「上司にバレないか心配」という点においては、未だ「上司にバレて」はいない(もしくは、バレたことを知らない)ので、これは過去の事象に起因し、未来を想像しソワソワしている状況である。

不安の無限増殖

しかし、解決すべき対象ではなくなったところで、その問題そのものは存在する。

むしろ、それを認識したタイミングで対処しなければ、不安が不安を呼び不安の連鎖が発生し、不安が無限増殖する可能性すらある。

 
例えば、深夜25時の自分以外誰もいない暗がりの自室。
たいていの大人であれば、そこで何者かが、要するにオバケだったり幽霊だったりという類のものが出てくるというのは想像しないだろうが、ちびっこはそうはいかない。
ちびっこの豊かな想像力からは、ベッドの下からオバケが出てくるのではないか、クローゼットの中から凶悪なモンスターが出てくるのではないか、そんなことを考えてしまい、一度考えたが最後、連鎖発生的に恐ろしい考えが浮かんでくる。
そして、このちびっこは最終的にパパかママ、もしかしたら、お兄ちゃんやおばあちゃんに救いを求めにくるかもしれない。不安の無限増殖だ。
大人は経験からベッドの下にオバケがいることを知っているし、クローゼットの中がモンスターズインクに繋がっていないことも知っている。
しかし、知っているだけで、それは確実なものではない。
もしかしたら、ベッドの下に色の白い子どものオバケがいるかもしれないし、クローゼットを開けたら青色の大きなモンスターが出てくるかもしれない。
ただ、人生経験上、一度もそれを経験していない。だから、そこに不安を感じることが少ないのだろう。
なお、筆者である僕は未だに想像力豊かな方であり、暗い部屋は苦手で、お化け屋敷には絶対に入らないということを伝えておこう。
 
つまり、不安は不安を呼び起こす種になり、一度根付くと大きくなってしまう可能性があるものだということだ。
そして、それが「漠然とした不安」となり押し寄せてくるのではないだろうか。

漠然とした不安を和らげる

この「漠然とした不安」は根治することは無理だとしても、和らげることはできるはずだと僕は考える。
 
なぜなら、子どもの時に感じていた不安の一つである「ベッドの下にオバケがいる」という不安は、いつのまにか消えているから。
 
では、どうして「ベッドの下にオバケがいる」という不安が消えたのか。
(ちなみに、僕自身としては不安は消えておらず、弱まったという感覚の方が正しい)
 
不安が消えた理由の一つは「経験しなかったから」ということがあげられる。
つまり、「ベッドの下にオバケがいない」ということを「経験した」=「知った」のだ。
「経験」は過去から得ることのできる「知識」だ。
 
そして、二つ目の理由が「諦めがついた」ということなのかもしれない。
ベッドの下からオバケが出てきても「自分にはどうしようもないことだということを知った」のだと思う。
つまり、「諦める」=「執着しないこと」で不安が解消、もしくは、和らいだのだと思う。
 
余談だが、「諦める」という言葉は「明らむ=明らかにする」が語源ではないかという説を聞いたことがある。
つまり、「明らかにすること」で「執着をなくすこと」ができるのかもしれない。
 

以上のように「漠然とした不安」に対しては「1.知識を得ること」「2.諦められるようにすること」が重要ではないかと考える。


漠然とした不安を持つ人を邪険にしない

さて、次に「漠然とした不安を持つ人」をいかに救うかという点に移りたい。

その前に、そもそもに「漠然とした不安を持つ人」を不満を持ってはいけないのではないかと考える。

「漠然とした不安」を持つ人は「不安」という性質は先述した通り「未来のことを考えている(もしくは、考え始めた)人」ということに他ならないからだ。

 

そういう人を邪険に扱うことは、プロジェクトなどにおいては極力避けた方が良い。

なぜならば、「漠然とした不安を抱える人」は、少なくとも「未来のことを考えている人」であり、その目には自分には映っていない未来の景色が拡がっているかもしれないからだ。

 

未来は誰にも予測できない。だからこそ不安が発生する余地がある。不安は未知に対して存在する。

未知のものならば、誰も知り得ることはなく、さらにそこには複数の可能性が隠れており、複数の可能性を一人で全て考え尽くせると考えるのならば、それはただの傲慢に過ぎない。

 

そして、ビジネスとしてもう一つ言えることは「社内など関係者内の不安を解消できない人が、どうしてお客様の不安を解消できるのか」ということだ。

関係者の方がお客様に比べればまだ動かしやすい。それすらも動かせないようならば、動かし方が間違っているのかもしれないと思った方が良さそうだ。

 

「漠然とした不安を持つ人」は、もしかしたら救世主かもしれない。

それくらいの心意気で接してみてはどうだろう。


漠然とした不安を持つ人を救う:知識を与える 

漸くここで「漠然とした不安を持つ人」を救う具体的な方法を考えたい。

その解決策の一つとしては、知識・情報を持っている人が持っていない人に与えてあげれば良いということだ。

言うなれば「啓蒙活動」ということになるだろうか。

 

しかし、この「啓蒙活動」というものは仕事においてはすぐに成果に直結するものではなく、仕事においては大変面倒なものだと言えるのではないだろうか。

だが、不安を持つ人をそのままにしておくと、不安が不安を呼び不安が蔓延する環境になり、最終的に自身が動きにくくなるということになると思われる。

いわば「情けは人の為ならず」であり、知識・情報を持たない人を助けておくと、巡り巡って自分に返ってくると思われる。

例えば、「その情報は知らなかったが、自分の仕事に大きく影響する」「言ってくれれば無駄な作業をする必要もなかったのに」などという経験をしたことがある人、見聞きしたことがある人は多いのではないだろうか。

そして、「そんな情報が必要だったの?」「そんなことも知らなかったのか」などという経験をしたことのある人もいるのではないだろうか。

ここに知識や情報の差がある。

自分には必要のない知識・情報だとしても、誰かしらの役に立つことがあるかもしれない。

逆に、自分には必要な知識・情報だけれど、他人からしたら不必要な内容であることがあるかもしれない。

そんな時に知識・情報を相互に伝え合う・教え合う関係や文化を構築しておけば、きっと効率は格段に上がるだろう。

 

さらには「啓蒙活動」については「noblesse oblige」であるとも思う。

現在は格差社会だ。

特権階級や貴族という訳でなかったとしても、持つ者は持たざる者を助けた方が良い。

貧すれば貪するというように、貧困は悪を生む。悪は自分の身を脅かす。悪に触れないためにも先の「情けは人の為ならず」ということで、持てる者は義務を果たすべきだ。

そして、格差の対象は富だけではなく、情報でも発生している。

それは決して社会的な高齢者と若者のITリテラシーの格差のみならず、会社の中にも存在する。

知識・情報を有する者は有しない者の気持ちを忘れる。もしくは、想像できなくなる。持たざる者が何を必要としているか見えなくなる。

そして、持たざる者には知識・情報が集まらず、結果、仕事ができなくなる。できたとしてもスムーズに進まなくなる。そうすると、持たざる者は仕事を任せてもらえなくなる。そして、格差はさらに拡がる。

お金の論理と同じだ。集まるところに集約され、一極集中となる。

その後、何が起こるか。

独裁、そして、革命だ。

最後にはゼロからのスタートが待っている。

そうならないように、現代の富裕層は寄付を行い「noblesse oblige」を実践している。(税金対策という話は置いておこう)

我々も情報を分け与えることをすべきではないのだろうか。


漠然とした不安を持つ人を救う:諦められるようにする

「漠然とした不安を持つ人」を救う具体的な方法の二つ目として「諦められるようにする」ということもあるのではないかと思う。

これはある種解決することを放棄する考えに見えるかもしれない。

しかし、世の中にはどうしようもないこともある。

例えば、夏の沖縄に自然と雪を降らせる力は現代の人間にはない。

例えば、1秒で宇宙に行く方法も今のところない。

そういう大きな類だけでなく、どうしようもないことというのはそこらへんにゴロゴロ転がっている。

そんなどうしようもないことに時間や労力を費やしても、それは無駄にしかならない。

それならば、どうにかなることに目を向けてあげた方が建設的というものだ。

そのためには、「自分(もしくは、自分たち)ができること・影響を及ぼせるもの」を知る(もしくは教える)必要がある。


漠然とした不安を未来の糧にする

最後に、漠然とした不安を未来の糧にすることができるのではないかということを考えたい。

「漠然とした不安」は上記の通り「不確実な未来」から発生するものである。

それであれば、少しでもその不確実性を排除してあげれば良いのではないだろうか。

例えば、「プロジェクトを成功させたいが、どこか漠然とした不安がある」などという話の場合、そもそものプロジェクトの将来像を示してみればいい。

そして、その将来像に沿ったアクションプランを提案してみてはどうだろうか。

仕事において具体的な目標が見えると、人間はその目標に向かって歩き出す。どうやって今ある課題を解決しようかと考える。どうにか目標を達成しようと動き出す。

「漠然とした不安」を打開するには「考えられうる未来」が必要なのかもしれない。

それは、「ビジョン」という言葉に置き換わることもあるだろう。

「私はこうやるんだ」「俺たちはこんな未来を創りたいんだ」そう考え、それを伝える、もしくは、実践していく。

それだけで「漠然とした不安」は多少は和らぐように思える。

つまり、「漠然とした不安」は「未来を考える、そして、未来を創るチャンス」だと言えるのかもしれない。

そのチャンスを無碍にするか、有意義なものにするか。

せっかくならば有意義なものに僕はしたい。


まとめ

  • 「漠然とした不安」は多くの人の思考を停止させる魔法のワード
  • 「不安」は「悩み」と似て非なるもの
  • 「不安」=不確実な未来に対し現在の時点で気にかけている状態
  • 「悩み」=過去の事象の延長線上である現在において発生し、それがために苦痛や心労を受けている状態
  • 不安は不安の連鎖を発生させ、無限増殖する可能性すらある
  • 「漠然とした不安」に対しては「1.知識を得ること」「2.諦められるようにすること」が重要
  • 漠然とした不安を持つ人を邪険にしてはいけない
  • 漠然とした不安を未来の糧にする努力を怠らない

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